ハチプロデザイン

ステッカー屋 ハチプロデザインのブログです。hachiprodesign@yahoo.co.jp

美味しんぼ 福島の真実篇 を考えると面白いこと

美味しんぼの件で複数の方に連絡してみても無反応なところを見るにつけ、ぼくが少々何か言っても怒られずに済むような気もするので、ここで超☆個人的所感を頭の整理がてら書いてみよう。

ま、怒 られたらその時はその時ね。
ただでさえ少ないフォロワー数も減るだろうね。全然オッケー。

美味しんぼは、漫画特有の曖昧さ(≒個人の感性へのマッチングし易さ)を保持したまま、実在人物に架空人物を混入動員することで、真実を伝えるド キュメンタリー(的な)表現をして「ドキュメンタリー以上の強度の表現に」補強した。

架空表現を用いて真実らしさを強化する手法は、従来より当作品が常習的に行ってきたやり方でもあり、いってみれば「通常営業」である。
ただし今回は実在人物地名団体が明記された上、作者はこれを真実と謳っているので「普段よりピントは現実に合っている、合わせた読みをして欲し い」と見るべきだろう。

だが今回、物語が示した真実が多くの読者の信ずるところと異なったため、「真実を伝える力を、架空表現をもって補強する」行為が「架空表現の悪用ではな いか」と、ここに至って多くに勘付かれた。
結果、普段は放射能問題に特にコメントしない「漫画好き層」も論争に加わった。

この件で多くの人が問題と感じる境界線として挙げている理由が「現実へのリンク」で、それはぼくも同意するところ。そこはしっかり反論されればよい。
でもそれだけじゃないんじゃないか、どうせならもう少しディープに考えてみるのも一興と思う。

もし漫画に社会的使命を担う何らかの役が想定されるなら
『基本合理的に進行する社会に抑圧されがちな呪的感性の解放』が、
全てではないけれどわりと大きな 部分を占めるんじゃないかなと思っている。

漫画は読者個人の感情の呪的な部分に
「表現が曖昧だからこそ」
言語化が不可能または極めて困難な情緒」にマッチしやすい面もある。
その点、美味しんぼ福島篇は正しく漫画表現の使命/手法を行使しようとした、という見方も可能だろう。

そこで先述のように「本来架空である表現まで動員」する手法が多くの読者の反感を買うに至ったと考えられるわけであるが、その一方で同作に好意的な言の多くは 「よくぞ我らの抱える不安を訴えてくれました」である。

美味しんぼは読者の呪的感性の解放を行う文法を用いて、的確に世の放射能を巡る「断絶」状況を浮き彫りにしてみせたのである。
この点、計算ずくで描いた ならば(おそらくはそうと思う)表現としては非常に的確、あっぱれと言っていいかもしれない。

話変わって。
少し長くなるので恐縮だが、美味しんぼ福島篇で「問題」とされている箇所を別の、少しバカな話題に置き換えて例示してみよう。

地球人A「地球人B奥さん、町内の地球人C奥さんのこと聞かれました?地球人Cさんのお家に近づくと携帯電話が通じにくくなったり、頭が痛くなる んですって」

地球人B「まぁ、わたしもそんな噂は聞いたことがありますわ。どういうことなのでしょう?」

地球人A「こういうこと言うのは憚られますし、証拠もないことですから断定できませんけれども、それってメトロン星人の円盤にありがちなことなん ですって、前の町長さんも仰られてましたわ。私はっきり聞いたもの」

地球人B「怖いわねえ。でもこんなに噂になっているなら、まったくの誤解というわけでもなさそうね。今後はC奥様をメトロン星人と考えておかない と、もし不意に町内侵略でも始められた時に困ることになるわね」

地球人A「B奥様もそう思われます? 私もそこを考えておかないといけないって思ってたんですのよ」

地球人B「もし本当なら大変だわ、メトロン星人となんか、危なくて一緒に住めないわよ」

地球人A「でもね、この町内の和も大事ですわよ。これからもみんなで協力して万一のメトロン星人攻撃に備えられる、良い町内にしていきましょうね」

地球人B「そうねえ、今後はC奥様はメトロン星人だと思って警戒しながらおつきあいするしかないわね」

以上、いかがだろうか。
C奥さんが地球侵略を狙うメトロン星人だという証拠は示されていない。
C奥さんをダシにメトロン星人への恐怖を煽る為には、証拠を示す必要などないんである。
こういった言論のあり方は、実は日常的に多くお目にかかる流れである。

誰かを被差別の枠組みに誘導する、古典的なやり方ではないだろうか。
だからぼくは美味しんぼ福島篇を、差別の源泉を醸成する文法を正しく用いた物語、と判断している。

メトロン星人に喩えたのは別に意味は無いよ。ガミラス星人でもトラルファマドール星人でもいい。
ともあれ。

表現上のエラーだろうか?
そうは思えない。プロのストーリーテラーが自分の描く物語の文法の、こんな基本的な部分を把握していない筈はない、とぼくは思う。

故に。ぼくは美味しんぼが虚偽を真実として描いていると批判するよりも、「架空の物語ならではの表現と文法を動員してまで」現実社会に向かって「差別の源泉を持つべきである」と訴えた(らしき※)ことが問題ではないかと考える。(※曖昧だからね)

一方で、物語の舞台や登場人物が全くの架空であるなら、差別醸成文法もおおいに結構と思う。
何故なら先述のように、漫画表現は人々の呪的な感性を解放する使命を負っているのだから。

感性を一時的に解放したとして、そこと現実の間に「架空」の明確な線が引かれているなら、常識的な大多数の読者は呪的ではない現実に、あと腐れなく帰還できる。
だが、美味しんぼにはその線が引かれていない。意図的に。

現状、当作品を批判する多くは作品の消滅を望んではおらず、批判すべきところを批判している。
原作者に消えて欲しいと思う向きも、実はそう多くはないのではないだろうか。
ぼくも同意である。

美味しんぼは、今後も作者の思う通りに描かれ、どしどし批判や賞賛されれば良いと思う。
ぼくは美味しんぼで仕掛けられたような呪的な差別醸成のトリックを、こうして報告し、批判すべきところは批判し、讃えるべきと思うところは讃える。

なんだか色々あるけれど。ぼくも漫画好きだからね。
そして、俗に『放射脳』などと揶揄される人達がいて、確かに困ったものではあるのだけれど、それでも同じ痛みや悲しみをもって懸命に生きる人間じゃないの。必要とあれば批判はするだろうけど、軽蔑なんかできない。

その上で。
皆さんがどのように読み、思考し、発言するのか、それが見られるのを楽しみに待つことにする。
おしまい。